それぞれの役割
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エジプト行きの説明会のあと、他の参加予定のみなさんが帰られたあと、
夫さんが制作する予定の映像について少し、話をする時間が持てました。
横でわたしが見ている限りでは、夫のジョーさんは、旅行会社代表の方(エジプト人の男性)に、初対面ながらも篤い信頼をいただけている印象を受けました。
そして0歳10ヶ月の娘は、説明会のあいだじゅう、あっちへハイハイこっちへハイハイ、
おしゃべりの声も大きく、母親として終始ハラハラしていたものの、
他の参加者さんはじめもうひとりの代表(日本人女性の方)にとても可愛がっていただき、
「こんなに小さい赤ちゃんがエジプトに行くということ、それが本当に素晴らしいことなので、ぜひ映像にも、よかったら後ろ姿だけでも映してほしいと思う」
と言っていただき、
驚きながらもとても新鮮な気持ちがしました。
その旅行会社さんが今までうけおったお客さんの中でも1歳なりたての赤ちゃんは史上最年少とのこと(今までは2歳の子が最年少だったとのこと)、
今回のエジプト行きの中で期せずして才能を買っていただき映像制作の仕事をいただけることになった夫さんにはじまり、
1歳1ヶ月でたくさんの大人の方たちにサポートをいただきながらエジプトの土地に足を踏み入れることになる娘、
それぞれに大切な役割があるのだと感じ、
また、それを、旅行会社さん側も、わたしたち家族以上に感じてくれていることが伝わりました。
その中でわたしはというとむしろ、一番地味な存在で(笑)
でも、それはそれぞれの役割だということなのです。
行くと決めたのはわたしで、それに付き合うかたちで、いわば流れでエジプトに行くことになった娘や夫。
でも真実はもしかしたら、当人たちの意思とは逆かもしれないのです。
たとえば、「娘や夫がエジプトに行くために(その必要があったために)、
わたしは、そこにつなげるための橋渡し役だった、など。
この大きな宇宙の流れの中で、それぞれがそれぞれに自然な命の役割を果たすときに
そういうことも、多々あるということ、です。
そのときに忘れないでほしいのは、
その自分の役割、橋渡し役である自分の命の存在もまた、
「マイナスなわけではない」「価値の低いものなわけではない」
ということです。
大事なことは、それぞれにそれぞれの役割がある中で、その「自然」を生きれば、
自分もまた自分の役割の中で必ず悦びを与えられ、必ず活かされる、ということです。
すべての人が中心的な役割、表舞台に立つ役割、多くの人から必要とされ、多くの人から注目され愛される役割なわけではありません。
これまでの旧い時代では、それぞれの役割に「優」「劣」をつけて、
表舞台に上がる役割、
多数の人から注目され、愛を注がれる(そのように映る)役割に
自分をなんとか当てはめようとすること、
その枠の中に入ろうとすること、
それを「良し」としていた部分が強かったと思います。
その枠組の中では、そういう役割のようには感じられない部分がもし自分にあったときに、
その個性を否定するなど、
そんなまったく不自然なことが、当たり前のようにされていた時代だったかと思います。
これからの時代はそういう表面的な部分にすぐ、本質を見失います。
良い役割、悪い役割なんてないのです。
得な役割、損な役割、というのもないのです。
ただ、それぞれの役割があるだけ。
大切なのは、そうではない役割であっても、
それが自分の命の自然な役割なのであれば、必ず、
そこに深い悦びも、得られるギフトも、溢れんばかりの愛も(それは量、ということではなく)、
必ず同時的に発生するということです。
どうかそれを、見逃さないで。
そこにちゃんと、自分を沿わせて行きていけば、自ずから然るで、
悦びも、愛も、糧も、
それぞれがそれぞれの役割の中で、
キャッチしていくことができること。
必ずあなただけの役割、個性を、
見てくれている人、 愛してくれる人がいること。
その「数」が大事なわけではけっしてないこと。
それが、命の、存在における
「自然のなりゆき」
だということ。
それを信じ、感じ取り、安心して自分の自然の役割を生きることが、できること。
それこそが、「幸せ」と呼ばれるものなのだということ、
それをどうか、見失わないでください。