自然のなりゆき
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どういう法力で、いや、どういう術で雨をふらしたのですか?
私は雨なぞふらしはしない
勝手にふったのでしょう
法力だとか術だとか…
そんな無理なちからなんか使わなくっても
雨はふるときにはふり
火はいつか消える…
それが自然のなりゆきなんです。
いつかそうなるのだからそれでいいじゃありませんか?
今日は一日雨だったので、娘と一緒に昼寝をたくさんしたり、、、
市の図書館で借りた本を読んだりして過ごしていました。
わたしは以前、人生の中で叶えたいことがたくさんありました。
だから、それらが少しでも叶いやすくなるために、少しでも多くのことが叶うように、
心や宇宙のことわりを学んだり、その学んだことを生かして自分の人生で実験を仕掛けてみたり…
その過程の中で、確かに奇跡と言われるようなこと、良きこととみなされるようなことに、よく恵まれました。
そしてそれを知った人が、わたしを「奇跡(良きこと)が起こせる人(あるいはその方法を知っている人)」だと捉えて、そのことに価値を感じてご縁を持ってくれた方もたくさんいました。
その結果確かに、人生がより良くなった、人生に奇跡が起きたと
喜んでくださる方もたくさんいらっしゃいました。
「ブッダ」の世界の中でも、
雨をふらせられるかどうか?
火を消せるかどうか?
念力が使えるかどうか?
術が使えるかどうか?
そういう、「目に見える何か」を「神に近い証明」だと、「宇宙と深く繋がっている証拠」だと、
だからそれを見せるがよい、それを示せないのでは信じることはできない、あなたの話は聞かない、
そんなことを、ブッダに求める人が多数出てきました。
それに対して、実際にブッダは人々が「奇跡」とみなすことを次々起こしてもいくのですが、
最終的にブッダに人がついていくのは、その「ありようそのもの」。
「体現が大切」と言われてきた時代から、新しい時代は、、、
おそらく、どんどんと「そこ」は、重要ではなくなってくることとと思います。
(体現、することが好みの人は、それがあっていい。必ずしもそこが指標にはならない、ということです)
何を発信していなくても、
何を示していなくても、
伝わる人には伝わる。
目に見える何かではなく、それをいかに掌握しているか?いかに扱えるのかどうか?ではなく、
自然の流れの中で、
そこに溶け込み、命の役割を輝かせて生きているのかどうか。
それが、エネルギーとして、放たれる。
それを人は、感じ取っていく。
そういう時代がすでにはじまっているのだと感じています。