言葉が邪魔になる

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wholenewworld.hatenablog.com

 

娘が生まれてもうすぐ11ヶ月。

 

最近、夫のジョーさんと言葉を交わしたり、

自分の感じていること、胸のうち、葛藤していることなどを伝え、話をすることが、

極端に減りました。

 

もともと夫のジョーさんは寡黙で、わたしがとてもおしゃべりなほうなので、

今までもたいていが、

わたしが話をし、ジョーさんがその話を聞いてくれる、

あるいは、

わたしが質問や言葉の投げかけをして、ジョーさんが自分のことを話してくれる

(そのことによって、何を感じているのか、今どういう状況なのかを知ることができる)

というかたちで

夫婦のコミュニケーションが取られていました。

 

でも、それが、ほぼほぼなくなったのです。

 

 

子どもが生まれて夫婦の会話が減ること。

なくなること。

 

それは一見、悪いこととして取り沙汰されがちなテーマである気がします。

 

なのですが、我が家は、逆の意味でこのことが起きています。

 

それは、

 

「相手の心理・状態・想いなどを感じ取れているから、

または、

感じ取ってもらえていると信頼しているから、

 

わざわざ言葉にして伝えてもらおう、

あるいは、

わかってもらおうという望みがなくなった」

 

という意味です。

 

 

たとえば0歳の娘の子育てをしていて、

ジョーさんがまだ寝ている朝方、

 

娘が離乳食を食べる中で、

あるいはいろんなものに興味を示して、

ものや絵本を棚からとんどん出してしまったり

 

そうすると部屋の中があっという間にもので溢れかえり、

そしてテーブルや足元にも、

食べ物がぐちゃぐちゃに散乱することなどが、

毎日起きます。

 

毎朝それが決まった儀式のように行われ、

やっぱり、

「ひええ」

と、ぐったりすることは多々あるのです。

 

でも、ジョーさんが起きてきたとき、

ジョーさんが見ていない、わたしと娘の大格闘があること、それを、

 

「こんなに大変だったんだよ」と

 

わかってもらいたくて、言いたくなることが、なくなりました。

 

それは

 

「すでに、わかってもらっている」

 

と感じているから。です。

 

たとえその様子を見ていなくても、

何があったかを知らなくても、

 

彼は、わたしが、

毎日わたしなりにがんばっていることを、

ちゃんとわかってくれている。

 

同じように、夜、

わたしと娘が眠りについてから、

自営業である夫さんが、自分の部屋にこもって、仕事をしていること。

 

その様子を知らなくても、

今、どんな仕事をしているのか、どんな具合に進んでいるのか、

 

それを知らなくても、見ていなくても、

 

わたしは、彼が、

毎日彼なりにがんばっていることを、

ちゃんとわかっている。

 

お互いに、それを言葉にしなくても、

自分の見えないところに、知らないところに、

相手のがんばりや、愛情や、

時には葛藤や、悩みもまた、あるのだということ、

 

それを抱えながら、それぞれに、それぞれなりに、

がんばっていること。

ベストを尽くしていること。

相手や娘を想っていること。

 

それを、言葉という、実感として感じ取れるかたちで示されなくても、示さなくても、

見えなくても、ちゃんとそれらは「ある」のだと

 

「信頼している」。

 

愛も、感謝も、がんばりも、時には悩みも、

「言わないのならば、”ない”」のではなく

「言わなくても、”ある”のだろう」、

 

なぜなら「自分もまた、そうだから」

と。

 

そんな前提が、今、深いところで、あります。

 

 

夫さんはおそらくずっと、娘が生まれるずっと前から

そのようにわたしに接してくれていたのだと今はわかります。

 

だから、わざわざ言葉にしてくれることは、もともととても少ない人でした。

 

でもそれを、言葉にされないのだから「無い」のではないか?と

 

わたしが信じることができず、

そして、「言葉にするタイプではない」という夫さんの個性をどこかで否定して、

わたしの望むようなコミュニケーションをとってほしいと、

いえ、むしろ

「コミュニケーションとは、こういうものだ」と、

 

自分の狭い価値観に、夫さんに合わせてもらおうと、

枠にはめようと、

 

していたところがあったのだと思います。

 

そうではなく、愛も、感謝も、がんばりも、悩みも、、、

 

自分の感じている「感覚」を

言葉に当てはめようとした瞬間、

 

かえってそれが、言葉という枠に限定され、そして、誤解を招くこと、、、、

 

つまり、

「言葉が邪魔になる」ことすらあるのだということ。

 

外国の言葉でやり取りをしているならばともかく、

こと、同じ「言語」を交わしているからこそ、

「言葉そのものは理解できてしまう」からこそ、

「自分の捉え方」で「相手の気持ちの奥すら、わかれている」と、

 

言葉に頼りすぎてしまうことが、起こってしまうということ。

 

そうではなく、言葉は諸刃の剣のようなものだから。

 

「それですべてがわかれるわけではない」と

そして「感じ取ろう」とすること、

「言葉がたとえなかったとしても、感じ取ってもらえているという信頼」、

 

それが、とても大切なことだった、と。

 

そのことに気づけて、今、

悩みや葛藤すら、言葉にし、相談することが大きく減りましたが、不思議と、

 

「いつも、この人はわたしのことを、わかってくれている」

 

そんな、安心感があるのです。

 

だから、言葉にし、何か、安心のできる言葉を得ようとしなくても、

自分の中で一人、

自分と向き合い、悩みと向き合い、

自分なりの答えを自分で出していくこと。

 

そんな姿勢が、自然と身についてきました。

 

そしてそんなわたしの変化も、

夫さんは、

ちゃんと、受け止めて、見ていてくれていると感じています。

 

「言葉がなくても、愛は、エネルギーで伝わり合う」。

 

そんな、コミュニケーションのこれまでの枠を越えた、

わたしたちなりのコミュニケーションが、

今、とても心地よく感じています。