「好み」すら浮かばない

☆前回の記事はこちら 

wholenewworld.hatenablog.com

 

今日は、主宰しているコミュニティ内のメンバーさんと、

近況を伺いつつの動画収録をしていました。

 

ちょうど丸一年前に初めて電話での個人セッションを受けてくださったその方は

初めてお話したときには、すでに一所懸命、生きていらっしゃったにもかかわらず、

常に自分を責めてしまっていて、

世界や、人生そのものを、

恐れている印象が、ありました。

 

でも今日、久しぶりにお話したその方は

ありきたりな言葉ですが

まるで別人

 

お仕事、職場の人間関係、パートナーさん、

周りの誰一人、そして状況も、(入籍され、パートナーさんが「彼」から「旦那さん」になったこと以外は)当時から変わっていないにもかかわらず

お話の口調も声のトーンも状態も

何もかもが別人のようで、

驚きのあまり思わず、

何を話したらいいのかわからなくなって戸惑ってしまうほど、でした。

 

「問題のない世界」

「問題解決のいらない世界」

 

改めて、そんな世界があるのだ、ということの確信を

強く再確認することのできた

素晴らしい時間でした。

 

映像としてコミュニティの皆さんにお送りできる日が楽しみです。

 

さて、そんな今日のひと仕事を終えて。

 

ふと、娘に夕食を与え終えて、一緒に遊んでいた時。

 

「すでに十分幸せである」

 

このことを、深く、感じました。

 

すでに十分幸せ…

 

この言葉を、わたしは以前も

何度も何度も、放っていたように思います。

 

でも。

 

わたしはいつも、そののちに、

 

「でも、その上で、

好みとしては、もっとこうなったらいいな」

 

 

そんな想いを、

さまざまな面で、抱いていました。

 

でも、今は…

 

「好み」すら

浮かばない。

 

それはまるで、

本当に美味しいものを食し、

本当に十分にお腹が満たされているとき、

 

「でももっと、こんなものが食べれたらいいな。こんな食べ物が好みだな」

 

…そんなことは、思い浮かぶはずがないのと、同じように。

 

「好み」も、「より、もっとこうなったらいいな」も…

 

何も、浮かばない。

 

それくらいに、今、すでに十分である。

 

もちろん、「もし、その上で、こうだったら”ありがたい”」

 

そんなことは、いくつか、あります。

 

もし、その上で、

家族みんなで、無事に、年を越せたらありがたい。

 

家族みんなで、無事に、年明けのエジプト行きに、行けたらありがたい。

 

夫のジョーさんが今、心を込めて作っているWEBサイト、それが、

誰かの心にとまり、

良い仕事としてやっていけたらありがたい。

 

 

そんな「こうであったら、”ありがたい”」

 

それは、もちろんあるのです。

 

でも、それは、願望(好み)とは、、、、

 

違いました。

 

わたしにとっては、

「今も十分に幸せだけれど、でも、もっとこうだったらいいな」と…

 

そのあとに、「もっとこうだったらいいな」「もっとこういうのが好みだな」と…

 

それらの言葉が、くっつき、イメージされるときの「もう十分に」は、少なくとも、

 

今、感じている

「もう十分に」とは、、、

 

まったく、違いました。

 

何もかも。

 

昨日までと、何かの状況が、状態が、変わったわけではありません。

でも、、、、

 

今、もう十分に、幸せです。

 

そこには、何かそれ以外に。

 

頭(心)に、浮かぶことはない。

 

そしてこの感覚が、わたしにとっては、

「自然なこと」。

 

そう、感じています。