無心になれる時間

☆前回の記事はこちら

wholenewworld.hatenablog.com

 

今日もまた、家族で海岸沿いに散歩にでかけてきました。

 

いつもの、とても気持ち良い公園。

何をするわけでもないですが、晴れの日は、

ここにでかけのんびり海を眺めること、

最近の、お天気の良い日の、わたしたち家族の日課となりつつあります。

 

 

昨日の記事のとおり、こちらのブログでは

言葉にエネルギーを乗せて綴っていくことを

大切にしていきたいなと、思っています。

 

あくまでシンプルに、なので今のところ写真等の掲載も考えておらず、

 

それらは、個人のInstagram

お伝えできたらいいなと思いました。

 

こちらはブログよりもずっと不慣れながら、

マイペースにアップしていこうと思います。

 

散歩から帰宅して、娘と、娘を寝かしつけたまま夫のジョーさんも一緒に

仲良く昼寝に根付いてしまいました。

 

そこでわたしは、

伯母が管理してくれている庭の畑で収穫できた落花生を

ピーナッツバターにしてみることにしました。

 

 

落花生の殻と、薄皮を、ひたすら手作業で剥き続ける時間。

 

 

無心になれる時間。

 

 

海に出かけるのも、わたしは

この時間がほしいと思うから。

 

なのかもしれません。

 

落花生を剥くこと。

海を眺めること。

 

その行為はまったく違うけれど、

頭や心を空っぽにすることができる時間。

 

それは「空っぽになる」のに、なぜだか、

心に栄養を「与えてくれる」時間。

 

わたしたち、日々、

いろいろな情報に触れて、

 

足りないから、得よう。

もっと良くなるために、得よう。

 

何か面白いことないかな。

なんとなく、手持ち無沙汰だから。

することがないから。

 

そうして、知識や情報を、

パソコンや、スマートフォンから、

 

浴びるように受け取っている時代。

だと思います。

 

でももしかしたら、そのことによって、

 

わたしたち一人ひとりの中にもともとある

 

「感覚」

 

「創造性」

 

それが、

埃をかぶったかのように、埋もれてしまっている。

 

可能性が、ある。

 

かも、しれません。

 

 

だからわたしは、ときどき、

海を見に行く。

 

手間がかかって、面倒で、非効率的かもしれないけれど、

落花生を、剥いてみる。

 

(その前の日は、遠縁の親戚のおばさんにいただいた里芋を、

洗って、土を落として、干して、

そして煮物にして、食べました)

 

 

そんな時間が、

 

毎日でなくてもいい。

ときどきだって、いい。

 

わずかでも、そんな無心になれる時を過ごしてみたら、

 

悩みも、迷いも、

ああしたいのに、こうしたいのに、もっとこうだったらいいのに、も、

 

それこそ、

土を洗い落とした里芋のように

 

すっきり

 

している。

 

それは、

 

何も、無くなった。

 

ように感じられて、実は、その状態から、

 

芽吹くものが、あること。

 

 

「感覚(直感)」

も、

「創造性」

も、

あなただけの「答え」

も。

 

それらすべて「無かった」のではなく、

「外から見つけてこなければ、

足さなければいけなかった」のではなく、

 

「埋もれていただけ」

 

だと。

 

無心になれる時間が、与えてくれるギフト。

 

どうか、すべての人が、

受け取れますように。